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あきらめ論


あきらめ論
小園 夢輝

「あきらめたらそこで試合終了だよ。」かの有名なバスケ漫画『SLUM DUNK』の安西先生が世にはなった名言です。これにより武石中のエース三井はチームを優勝へと導くことができました(僕はそんなに詳しくは知りませんが…)。確かに何かをあきらめないことで大成した方はたくさんいますし、私たちは子どもの頃にはあきらめないことの大切さを何度も教わってきました。「あきらめる」という言葉自体、「逃げ」であったり「甘え」であったり、ネガティブなイメージを持っている方も多いと思います。でも、果たして「あきらめる」ということは「悪いこと」なのでしょうか。毎度少し後ろ向きなテーマになっていますが、今回はその「あきらめる」ということについて考えてみたいと思います。
あきらめずに努力を続けることは、目標を達成するための方法の1つではありますが、唯一のファクターというわけではありません。僕が今からどんなに努力してもプロ野球選手にはなれないし、小中高とずっと野球を続けてきた人の中でもプロになれるのは一握りです。しかしそれは単に努力をしなかったということではなく、身体的な面や家庭・地域の環境、そしてときの運などそこにはさまざまな要因が存在していると思います。じゃあプロになれなかった人の努力は無駄だったのか?というとそういうわけでもありません。自分がプロになれるかなれないかなんてやってみなければわからないし、そうしてプロを目指すことで身についた体力や精神力はきっと何かの役に立つはずです。「自分の努力が足りなかったからだ」と反省することも大切ですが、努力してもどうしようもないことも時にはあります。結果を嘆くのではなく、それによって得られたものを振り返ってみるのもときには大切ではないかと思うのです。
そもそも「諦」という漢字はネガティブなものではありません。サンスクリット語においては真理や悟りを意味し、漢字辞典を見ても意味には「つまびらか。明らか。明らかにする。」などと書いてあります。選択肢の中から自分に向いていないもの、あまり興味のわかないことを「諦め」ることにより、自分のその後の道が明らかになるのだと思います。
小さいころには確かに可能性は無限大に広がっていて、何事にもあきらめずに取り組んでみることはさまざまなことを知るうえでは大事なことです。しかし、自分の体は2つにはなりませんし、やりたいこと、やるべきことを短い人生の中ですべてやり抜くことはとても難しいです。小さいころにさまざまな可能性を知ったうえでいくつかの道をあきらめ、自分の本当にやりたいこと、可能性があることに専念することが、かえって「自分らしさ」につながるのではないかと僕は思います。


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