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思い出のはなし。


思い出のはなし。
荒木ゆうか

先週、ある講義中、
『「思い出」でつながる。』というフレーズが。
頭の中をぐるぐるまわり、
たくさんの方のオモイデに触れて、
心が強く動かされるような、胸がぎゅっと締めつけられるような、不思議な感覚に包まれました。

───

先日、熊野がブログで書いていたように、
専門的な講義が始まりました。
とても楽しいです。

その中のひとつに、この講義があります。
田北雅裕先生の「まちづくり基礎論」。

「まちづくり」…とは、何なのか。から勉強しています。

その中で、まちづくりをする上で重要なポイントのひとつとして挙げられたものが、冒頭で述べた
『「思い出」でつながる』
ということでした。

田北先生はHPで「オモイデアンケート」に取り組まれています。
アンケートのオモイデに思わずにやけてしまったり、うるっとしたり。
文字が映し出されるのは液晶画面だとしても、ひとのオモイデにそっと触れることにより伝わる温もり。
オモイデのもつ「力」に魅了されました。
強く心に訴えかけてくるオモイデたち、心を動かし、胸を締め付けてくるものたちでした。

 

そして、
思い出によって形成された誰か。
その誰かによる思い出のはなし。
誰にも邪魔されずに、思い思いにことばを紡ぐことの出来るその場。
なかなか、日常生活を営む中で設けることができない時間だとも感じました。

 

普段、意識しないと言語化しない「思い出」たち。
「現在」から、距離が少し離れた「思い出」だからこそ反映させることが出来る、「わたしの目から見た世界」がある。
今日のことも、これからのことも、
今だからこそ書ける文章で、しっかりと「ことば」として残したいです。

さて、冒頭で述べた田北先生の言葉には続きがあります。

『「思い出」でつながる』ということ。
そして、「思い出」とは、愛着そのものである。』

「愛着」ということばは、わたしのなかで大きな存在を占めていることばのひとつです。
(※詳しい経緯は「ふるさとのはなし。」にて)
さまざまな企画をたてる上で、東峰村やWITH-Üにいかに「愛着」をもってもらうか、ということが私の目標でした。
「東峰村プロジェクト」だったり、「かえる会」だったり。
愛着を持つことが出来れば、やる気も生まれるのではないかな、と。

けれども、それは漠然としていて、難しくて。
熱意だけが空回りして、「そんなにタスクが多かったら、愛着を持つ前に嫌われちゃうよ」と指摘されてしまったり。
そんな葛藤の中、

「思い出」とは、愛着そのものである。

この言葉が、スッと入ってきて、心が落ち着いたような気がしました。
「愛着」を持たせようとするのではなく、一緒に「思い出」を作ればいいんだ、と。

 

東峰村プロジェクトも本格的に始まります。
前回の訪問からもうすぐ1ヶ月。
来月初めに行われる民陶祭には、東峰村プロジェクト参加メンバーの有志で遊びに行きます。
(※ぜひ、東峰村裏プロジェクトもご覧下さい)

たくさんの思い出が生まれますように。
そして、思い出の一つ一つが愛着につながりますように。

 

(写真は、わたしが2011年に卒業した旧小石原小学校の2018年3月の写真です。)

 


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