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教育者としての私たち


 

教育者としての私たち
村川帆香

Q.社会とは何であるか?

A.異なる背景を持つ一個人の集合体。

※あくまで私の回答であり、絶対的回答ではありません。

 

こんにちは、はじめまして!

初めてこのブログを書かせていただきます、この春無事大学生になった村川です。

この団体では圧倒的少数派の、九大「じゃない」人です。笑

大学では弓道部に入っているので、中々こちらの活動には参加できておらず……。

なので、このブログが本当の意味でのWITH-Ü初参加になります。

拙い文章になるかと思いますが、どうか優しく見守ってくださいm(_ _)m

 

さて、冒頭の謎の質疑応答についてですが…

最近、哲学の授業で扱ったテーマです。これをなぜ教育と結びつけたのかというと、教育こそが、この「社会を構成する一個人」の人格形成における最も重要な要素のひとつであると思うからです。「教育」と聞くと、学校という教育を専門とした現場を思い浮かべることが多いと思います。しかし教育とは、幼少期や学生のうちに完成されるものではなく、生涯を通じてなされることです。だって、人間は成長する生き物だから。いろいろな人と関わって、多くの経験を積み、自分とは異なる考え方に触れていき、また新しい自分が生まれる。これも教育の一環だと、私は捉えています。

 

話は少しずれますが、社会には「法律」や「マナー」といった、ある一定のルールがあります。これらは自然と思考のうちに湧いてくるものではなく、周囲の人間からある程度教わることで、あるいは周囲の人間が「そう」しているのを見て、徐々に身についていくものだと思います。もうすぐ成人する私たちでさえ、ほかの人の行動を伺いつつ、自分の行動を決めていることが多々あるのではないでしょうか。だとすると、自分の行動がほかの人の参考になっていてもおかしくないはずです。

 

そんな風に、他者から見られている自分が、あるルールを破ったとします。もしかしたら、自分自身「ほかの人もやっているからいいじゃないか」という軽い気持ちでいたかもしれません。するとその後、自分の行動を参考にしたほかの人が、同じような思いでルールを破ってしまいました。これが幾度も続いていくと……世の中、無法地帯になってしまうのは目に見えていると思います。

 

そういうわけで、タイトルにつなげていきます。

つまり、私たちの普段の何気ない行動でも、他者の見本になっている可能性が常にあるということです。学校や塾の先生、親だけが教育者じゃない。私たち学生だって、ある意味教育者なんじゃないか……そう思います。

そして、近い将来社会を担っていき、もしかしたら次の生命を育てていくかもしれない可能性を秘めた私たちは、このことを重大な責任かつ使命であると受け止めるべきなのではないでしょうか?

以上が、私の教育に対する思いであり、私自身の人生における問です。

 

話が長くなってしまい申し訳ありません……!

私が中々対面での活動に参加できてないがゆえに、顔を合わせたことがないメンバーも何人かいると思うんですけど、その方々にも私がどういう人間なのかが伝わるといいな……笑

これ以上長くなってはいけないので、ここで失礼します。


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