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ものの見え方の違い。


こんにちは、二代メンバーの李在衡です。お久しぶりです。
もう自分の順番って驚きそのものです。
そんなに時間が経ったとは直前までも気づいていませんでした。

時間は全く意識していないうちに、いきなりやってくると改めて実感するようになります。多分、その原因は自分の日常にあまり変わったところがないせいでしょう。もちろん、ちょっとした違いはありました。

それはノートパソコンの代わりにiPadにキーボードを連結してブログの原稿を作成している点です。何故かと言われたら、武器にも使えるこの重いパソコンを毎日キャンパス内で持ち歩きたくなかった人のごく小さな逸脱だと考えていただきたいです。

そのおかげでカバンは明らかに軽くなりましたが、キーボードが薄すぎるため、なかなかその触感が慣れてこないという問題があります。でも、頑張ってタイピングしています。慣れるときまで、よろしくお願いします。

本論に戻って、今日話す内容は韓国の近代小説家及び詩人であった李箱(イサン)の小説である「翼」と関わりがあります。一応、今度の題名はものの見え方としておきましたが、実際今話す内容と関係あるかは謎です。(笑)
文系なりの感想として考えていただければ幸いです。

では、今度も小説の内容を簡略に紹介すると主人公は男で、水商売をしている妻に頼って暮らしています。ところが、彼は動物としての最小限の機能のみを果たしているもう人間とは言えない状態にいます。なぜなら、妻がアスピリンだと欺きながら、彼に催眠薬を飲ませているためです。小説の表現を借りると、彼はまるで剥製のような人生を生きていました。

なぜ、この小説の話をするかというと、その結末が今までもとても印象深く残っているためです。ある日、男は自分が飲んで来たことが催眠薬であったことを気づき、衝撃に陥ります。 そして、なんとなく歩いている間に彼は京城(今のソウルです)の三越百貨店の屋上に辿り着きます。今天神に行けば見えるあの三越の京城店です。小説は街を見ながら話す、もう一度飛んでみたいという主人公の独白で終わります。

この小説の主題意識は無能力者の主人公が薬を切ってスッキリした精神でもう一度飛んでみようとするところにあるはずですが、多分多くの韓国人の印象にはそれよりも最後の飛び降りを暗視するような結末が強く残ったと思います。そのため、私自信も最近までこの「翼」という小説は太宰治の人間失格のようなとても暗い小説だと考えていました。

ところが、最近はこのような読み方が間違っているという観点があるらしいです。原文を見ると独白のすぐ前に「出て僕は再び考えてみた。この足がどこに向かえばいいかと」という内容が書いてあります。以前までは‘出て‘をあまり重視しないまま、単純に作者の考えが続くのだと思われていましたが、実はその‘出て‘のところが‘三越百貨店を出て’を意味しているということです。そのため、この作品は屋上での飛び降りではなく主人公がまた希望を取り戻すという明るいエンディングを持っているらしいです。

たとえ同じことを見ているとしても人によってその捉え方は違うはずです。
上述の小説の場合もそうでありますし、ほんの少しの解釈の違いが全く異なる結果をもたらしてきます。自分が高校の時に本当に非常に印象を受けた小説であるにも関わらず、こんな秘密が隠れているとは見当をつきませんでした。数式では説明できない人文学的研究においては、このようなものの見え方の違いによる現状の歪みは避けられないでしょう。でも、だからこそ意味があるのではないかと呟いてみます。そしてその分、一つの観点に拘らず、より広い視野を持つ必要があると思います。

自分の話したいことがよく伝わったかは謎ですが、読んでくれて本当にありがとうございます。では、2週間後にお伺いします。

Ps:写真は京城にあった三越百貨店の現在の姿です。


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