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「大人」と「子ども」の違いは何か?


「大人」と「子ども」の違いは何か?
叶 彩花

こんにちは、お久しぶりですね。最近風邪をひき、ショウガがブーム(?)の叶です。
前回のブログに対するコメントの投稿、ありがとうございました。
今回は、前回の問いに対する私の意見と新たな「答えのない問い」を提示したいと思っています。(別の話題を加えて書くと文字数が大変なことになりそうなので。)

——「大人」と「子ども」の違いとは何か?
投稿された方々のコメントを見ていると、経済面・精神面での自立・自分を律することができる、というのは「大人」と「子ども」の違いを考えたときに私も真っ先に思い浮かびました。
複数の辞書で調べてみても、
おとな(大人)
①成人した人。一人前に成長した人。②思慮、分別があるさま。 ―――明鏡国語辞典より
①十分に成長して、一人前になった人。成人。②考え方や態度が一人前であること。青少年が老成していること。③元服を済ませた人。成人。 ―――スーパー大辞林より
①一人前に成人した人。(自分の置かれている立場の自覚や自活能力を持ち、社会の裏表も少しずつ分かりかけて来た意味で言う)②その場の感情や目先の利害などにとらわれず、後のちまで見すえた対処が出来る様子だ。 ―――新明解国語辞典より
皆さんのコメントと同じようなことが書いています。

ちなみに、私にとっての「大人」と「子ども」の違いは「理不尽なことに理由をつけて受け入れることができるかどうか」だと思います。
まだ社会に出ているとは言えない私ですがニュースやTwitterでの呟きをみていると、世の中には理不尽なことがたくさんあって、普段生活していくなかでその一つ一つに抗っているととても平穏には生きれないのだろうなと感じます。一種のスルースキル、とでもいうのでしょうか。それは身につけることによって大事なものを見落としていくかもしれないけれども、そうして生きていかなければ身が持たないというものが社会なのではないかと私は思っています。

ですが、こうしたことを考えていく中で疑問が生まれました。
「成人した人でも“子ども”と呼ばれる人はいるのか?」「“大人”と呼べる未成年が、“大人”として扱われる機会はあるのか?」
私たちが普段使う「大人」「子ども」は成人しているか否か、という意味が多いですよね。皆さんには前回の問いで答えて頂いたような意味で用いる機会があるでしょうか?少なくとも、私はこういった話をするときぐらいにしか使いませんね(笑)。
会社勤めの方はあまり未成年との関わりがないでしょうし、学校という場では“先生と生徒”という関係上“大人と子ども”という区分になってしまうので仕方がないのかなとも思います。
中学、高校生などの未成年者が「大人」として同等に扱われる場というのはあまりないのかもしれません。
「大人」として同等に扱われる機会というのは、未成年にとって自分の意見に自信を持てる良い経験になるのでもっとそういった機会が増えるといいなと思っています。

皆さんもぜひ「大人」と「子ども」を意識して生活してみてください。何か新しい発見や、問題意識が生まれるかもしれません。
(あれ?もしかすると社会の課題を発見するというのは、私にとっての「大人」でいえば、「大人」が「子ども」になれるよう意識するということになるんでしょうか?(笑))

 

それでは私の意見はここまでにして、今回の「答えのない問い」を提示します。

「子ども」にとっての学びとは?

 

今回も閲覧、ありがとうございました!


コメント

  1. 名無しのゴンザレス より:

    今回のブログの記事を拝見させていただく限り、「子ども」に対する解釈はさまざまなようですが、便宜的に、叶さんが考えていらっしゃる「大人」と「子ども」の違いを援用し、「子ども」を「理不尽なことに理由をつけて受け入れることができない人」と定義します。それならば、単純に考えて「理不尽を受け入れることができるようになること」が「大人」になるということであり、そのためのあらゆる活動が「子ども」の学びでしょうか。
    しかし、問われているのはあくまで、「子ども」にとっての学びとは何か、つまり「子ども」の目線に立って学びを考えないといけないのですね。たとえば「自分の持つお気に入りのおもちゃを友達に貸してあげられるようになること」は「子ども」にとっての学びということはできないでしょうか。先の定義から「子ども」は理不尽を受け入れることができません。おそらく、「子ども」からしてみれば自分のお気に入りのおもちゃを他の人が遊ぶことは受け入れがたい理不尽だと思います。当然最初は泣いたり怒ったりしてその理不尽に反発すると思いますが、そこから親や先生、あるいは年上の子どもからたしなめられ、我慢することをおぼえ、やがて自らおもちゃを貸してあげるようになると思います。そして、この一連の流れのなかに理不尽を受け入れるための理由を見出す過程が含まれており、それが「子ども」にとっての学びであると考えます。

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