ブログ

「あたりまえ」だからこそ。


「あたりまえ」だからこそ。
黒岩竜大

―実は、僕たち人間も、それからけものや鳥や虫たちも、みんな命の木を持っているのです。けものや鳥たちはそれを知っています。(中略)知らないでいるのは人間だけです。―

これは『ニングルの森』(倉本聰)のある一節です。

みなさんは、この言葉についてどのように思いますか?

僕は、私たち人間は、「当たり前のこと」を当たり前にしすぎてしまった結果として、大切なことを次々と忘れてしまっている、ということを読者に思い起こさせる言葉であると思っています。

僕たちが普段なにげなく飲んだり使ったりしている水や、食べ物、お金など、みんな、地球にいるからこそ受けることが出来ている恩恵であり、それらがなくては生きていくことはできません。

鳥や虫たち、ほ乳類などの動物、生きとし生けるものすべては、地球にある、限られている資源の中で生き延びていく必要があることを肌で感じて「命」を必死につないでいます。

ところが、僕たち人間は、さまざまなことを便利・簡易化したことで、たくさんの「あたりまえ」のなかで生活を送っています。

たまご1個のためにお風呂2杯(?)分の水を使い、
その水を貯めるダムが多くの生き物を消滅させていて、
紙を使うために木々を伐採して…

挙げるときりがないですが、このように僕たち人間は、背景にあるものを見ることなく生活を送っています。

この「あたりまえ」について、僕は家庭内でも考えさせられたことがあります。

両親が仕事で家に帰る時間が遅いことが多かったので、僕は幼いころから一緒に住んでいる祖母の手で育てられていました。
家事やごはんの用意などを欠かさずにしてくれていました。

僕は幼いころからそのような環境で育ち、祖母からの世話が「あたりまえ」になっていました。

だから、自分では、その「あたりまえ」に気づかないまま生活を送っていました。

昨年の冬のことでした。

僕はいつも通り学校に行って、その日の朝に起きたことを放課後に知りました。
祖母が倒れて救急車で運ばれていた、ということを。

幸いなことに、仕事に出かけていたはずの母が忘れものを取りに帰った時に倒れていた祖母を見つけたことで、命は助かっていました。

連絡を受けてから病院へ行き、祖母の姿を目にしたときには、とっても安心しました。

現在、暮らしている場所は別々ですが、祖母は元気に生活を送っています。

その出来事を機に、僕は祖母が「あたりまえ」にしてくれていたことへの感謝を初めて身に染みて感じました。

「あたりまえ」のことの後ろには、忘れてはいけないことがたくさんあると思います。
僕たち人間が「あたりまえ」にしていることについて一石を投じ、改めて考えさせられる機会を与えてくれる、『ニングルの森』に住んでいるニングル。

ぜひ一度読んでみてください。
みなさんにも、「あたりまえ」だけど知っておく必要のある「あたりまえ」があるかもしれません。

ふと瞬間に気づいた「あたりまえ」を大切にしてください。
前回に続いて固い内容ですが、読んでくださってありがとうございます。

 


コメントを残す

*