ブログ

違和感のはなし。


違和感のはなし。
荒木ゆうか

小学生のころ、月に2回、実家に帰ることのできる土日がありました。
その日の帰りの車の中で、約2週間ぶりに会った両親に、2週間の思い出を、ただひたすらに喋り続けていました。
「帰りの車の中で、ゆうかのマシンガントークを聞くと、楽しんでいるのが伝わってきた」と当時、母親が書いてくれた記録に残されていました。
(『山村留学と原点のはなし。』)

大学生になり、再び離れて暮らすようになりました。
今回は、小学生のころとは異なり、共同生活をしている同居人と、一緒に行動をすることや一緒に食事をとることは求められません。
部屋は共有しているけれど、自由が確保された空間です。

しかし、その空間のなかで、不自由を感じることがあります。それは、「おいしい」と言えないことです。
わたしは、「いただきます」「ごちそうさまでした」「おいしい」を口に出したい人間で、実家では当たり前のようにいっていたのですが、ひとりで生活をはじめて、「おいしい」って、誰に向かって言っているんだろう、と考えるようになりました。
自分で料理をして、ひとりぼっちの空間でごはんを食べて、「おいしい」と口に出しても、聞いてくれる人も、返ってくる声もありません。
そして、その場に仮に人がいたとしても、同じものを食べていなければ、違うものを食べているのにわざわざ「おいしい」ということを伝える必要もなく、
逆に、誰に話しかけてるの?となりそうな気がして、ここでもまた、悩みます。
「おいしい」は、ひとりごとなのでしょうか。
言いたいけど、言えない、言ってしまってからも、虚しい。

わたしは高校生まで必ず家族や同居人と一緒にごはんを食べていたので、ひとりで暮らし始めて、初めてこの経験をしましたが、
子どものころから、ひとりでごはんを食べている人は、きっとたくさんいます。
そうなったとき、この「違和感」を今感じることができたのは、これまでの自分の経験からつくりあげられた自分だからだ、と意識すると、
ほんの少しだけ自分の存在意義を見出したような気分になります。

いくつもの人生を歩むことはできないので、わたしには見えない「違和感」はたくさんあると思います。
例えば、わたしの場合、経済格差とか、お金に関することは疎いので。
そうなったときに、それに違和感を感じられる人に任せることができるようになること、が人と知り合うこと、書籍から学ぶことで得られるものの一つなのではないかなあと。
まったく興味のなかった分野について友人がはなしをしているのを見て、興味を持つかもしれないし、知識を得ることができるかもしれない。
(かえる会みたいに)
自分で調べるには少し苦手な分野でも、過去に調べてわかりやすくまとめてくれている人がいるかもしれない。
(教科書に書いてあったり)

「苦手を克服しなさい」と言われてきた中等教育期間を乗り越えて、自分が苦手なことは、任せちゃってもいいのではないかな、と思えるようになったようです。
もちろん、人任せではだめなときもありますが。

誰かから何かを学ばせてもらったときは、今度は、わたしも、誰かの役に立てるように、「違和感」を大切にして、共有しなくてはならない、と思うようになりました。
出来る限り、わかりやすく、
出来る限り、正確な表現で。
出来る限り、限界まで突き詰めた状態で。

昨日、かえる会をしました。
参加者アンケートの回答に「このように、もやもやを共有できる場があるのはいい」と書かれていました。
とても、嬉しかったです。かえる会でも、イベントでも、ブログでも、違和感を共有する、違和感に気付く場を構築できたら、本望だな、と。それが、わたしの考える「まなび」でもあるような気がします。


コメントを残す

*